11月期の誕生日パーティ。
センターではその月の誕生日をまとめて祝う。
この日ばかりはセンター内でのカラオケも解禁で。
NTTグループを早期退職、セカンドライフとして2年間のハンガリー生活を経て、現在はベトナムに活動の場を移しています。 異国での出来事について、徒然なるままに綴っていきたいと思います。
2021年11月21日日曜日
2021年11月20日土曜日
Teacher's day 2021
コロナ禍でもあり大きなイベントは出来ないので、ささやかなお祝いのみとした。
それでも応接室には花が溢れ、改めてベトナムは「女性の日」と「教師の日」を大切にする国だと思った。
学生からはワイシャツと花束といただく。
みんな、ありがとう!
2021年11月19日金曜日
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親父の仕事は海上保安庁一筋だった。
俺が小学校1年の時、和歌山の田辺海上保安庁に転勤になった。
2度、3度、海上保安庁の事務所に遊びに行った記憶がある。
中学3年の1学期を終えた頃、神戸にある第5管区海上保安本部に転勤となった。
俺は和歌山に残ることを望んだが一人で住めるわけもなく、大阪の枚方に移り住んだ。
この頃の事は以前も書いたが、俺が枚方で過ごしたのは2学期のみであり、3学期が始まる頃には俺は1人で和歌山に舞い戻ることにした。
この後、親父と一緒に住んだのは大学浪人が決定して2ヶ月余りのみで、その後俺はアパート込みの新聞配達で浪人生活、大学入学後も家から通うこともなかった。
両親と一緒に住んだのは中学3年の2学期までで、それ以降両親に対しては親不孝しかしていない気がする。
働きながら夜間大学を卒業した親父と、浪人の末入った大学を中退した俺。
海上保安庁を最後まで勤め上げた親父と、NTTを早期退職し日本を飛び出した俺。
俺は最後まで親父を超えられなかったな。
最期の日も見送ることが出来ず、それ故に親父の死がなんだか他人事のようで親父が死んだ事にけじめがつけられない日々が続いたが、初七日を迎える本日で親父への追悼は最後とする。
2021年11月18日木曜日
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確か小学校3年か4年の事。
当時住んでいたオリエンタルアパートの前にはみかん畑があり、そこでよくみかんの小さな実をボールに野球をして遊んでいた。
ある日、俺の打ったみかんの球は改心の当たりで自宅方面に飛んでいき、その後派手にガラスの割れる音が響いた。
俺と友達はその音を聞くなりその場から逃げ出し、ほとぼりが冷めるまで東陽中学の裏に身を潜ませた。
夕方になり帰宅したが、時が全てを無かったことにしてくれる訳もなく、家の玄関のガラス窓が無くなっていた。
仕事から帰ってきた親父にお袋は事の顛末を伝えており、流石の俺も雷を覚悟したが、親父はその事にはいっさい触れず、俺をバイクの後ろに乗せ、扇が浜まで連れて行ってくれた。
夕陽が海を染め、俺が泳ぎ疲れるまで、浜辺でずっと待ってくれていた親父。
その時は何も気づかなかったが、今にして思えば多分親父には子供のわからぬ悩みがあったのかもしれない。
海に沈み行く夕陽を浴びながら、何かと戦っていたのかもしれない。
2021年11月17日水曜日
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俺が小学生低学年の頃から、親父はよく本を買ってくれた。
イソップ物語、アラビアンナイトといった年相応のものから、一風変わったところでは「おろか村」という民話まで。
おろか村は短編をいくつか集めたとんち本なのだが、内容は今でも覚えている。
冬の寒い最中、大きな岩を細い縄紐で天井の梁に縛りつけ、本人はその下でふんどし1丁で座っている。
こうすることで、岩がいつ落下するかと気が気でなく、汗が出る、つまり暖房対策。
けち自慢の2人がお互いの弁当を見せてどちらがけちかを競い合っている。
一方はほんの少しの塩がおかず、他方は1つの梅干。さてどちらがけちか?
答えは梅干のほうがけち、理由は梅干を食べずに見ることで湧き出たつばをおかずにご飯を食べることで、梅干は何回でも使えるから。
俺が国語を苦手としなくなったのはこのおかげだと思う。
2021年11月16日火曜日
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死んだ後に行う葬儀になんの意味があるのか今までわからなかったけど、これまでの感謝の気持を伝えるのと、後に残された者が気持の整理をつけるためにも必要なんだということがわかった。
娘の計らいで葬儀模様はオンラインでモニターを実施。
小さな携帯画面に写る映像に実感は無かったが、棺の中のこの世で最後の親父に会えたことがありがたかった。
実際に葬儀に参列していなかったからなのか、全てがネット越しの情報だからか、親父がいないという実感はまだ無い。
次に帰国した時、パソコンの前で囲碁に没頭している親父に会える気がする。
人は親父の死を乗り越えて成長すると言うが、そういう意味ではまだまだ俺は成長出来ないガキのままだ。
2021年11月15日月曜日
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バクザンでも一時は感染者無しの日が続いたが、今では日に40人前後の感染者をたたき出している。
教育センター近くでの隔離発生、交通規制再開、中国製ワクチン2回接種後に感染して死亡・・・悪いニュースが横行している。
ベトナムから日本への帰国に関する制約や、外からベトナムに再入国するための書類手続きに約3ヶ月もかかる現状で、帰国もままならない中で親父は逝った。
葬儀の全てを弟に託した・・いやっ、託すしかなかった。
親父が誤嚥性肺炎という病気を発症してから約半年、口から何も食べることが出来ず、鼻から胃へ直接栄養素を流し込むだけの、およそ人間の食生活ではない状態が最期まで続いた。
途中で少し自宅に帰ることは出来たのがせめてもの救いだろうが、不自由な体を抱えた親父はどういう気持ちだったのだろう。
今まで誠実に人生を過ごしてきた人の最期がこんなものでよいのだろうか?
最期に親父は何を思ったのだろうか?
良い思い出だけのまま、人生を終わらせてあげることは出来なかったのか?
延命治療がもたらしたものは幸せだったのか、それとも苦しみだったのか?
それは親父が望むことだったのか?
死に顔が思いのほか穏やかだった。
「ようやく楽になれてよかったね」
そう思わせてくれる顔を残してくれたのも、親父らしい気の使い方だったのだろう。