2021年10月29日金曜日

Slow step

ハンガリーからベトナムに来たのが2014年9月、ベトナムに来て既に7年が経過した。
日本を離れてからを起算すると既に9年余りが経過した。
52歳からの再出発、その時は余りに遅い気がしたが、この機会を逃すと後悔すると思い立って飛行機に飛び乗った。
それから早や9年、ともすれば今まで過ごして来た年月の長さに、残りの生きる意味を見失いそうにもなる。
自分のやりたい事が何かわからぬままに過ごした人生にピリオドを打ち、9年前に日本を離れてから、極力日本人のいない場所で日本人のアイディンティティを維持しつつも残りの人生を何に費やせばいいのかを考え、それが見つからないまま今まで走り続けたようにも思う。
これまでの9年間に悔いは無いが、このまま残りの人生を成り行きに任せて過ごしてもいいものだろうか?
本当に自分がこの世に生まれてきた使命を全う出来たのであろうか?
最後に何か、生まれてきた証を残すべきではないのか?
全ての人に喜ばれる何かを確立すべきなのではないか?
このままだらだらと残りの人生を過ごして死ぬ際に後悔しないのか?
確かに今の環境は俺にとっては楽で、新たなスキルを得ずとも無難に業務をこなすことは可能だ。
果たしてそれが晩年の過ごし方としていいものだろうか?

子曰(のたま)わく、吾十有五(じゅうゆうご)にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従(したが)う、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。

孔子の論語と比べれば俺は30年は遅れた人生を歩んでいるようだ。


2021年10月28日木曜日

Photo session

パーティーが終わった後はセンター近くの喫茶店へ。
この喫茶店の周りには何も無く、屋上からは周囲が見渡せることもあり、写真好きのベトナム人にとっては格好の撮影場所となる。
屋上で撮影会をしたり、喫茶店の外に大きなスピーカーを出してカラオケをしたりと、この日はセンターでの厳しい規則を忘れて羽根を伸ばした。
今までコロナで押さえつけられた生活をしていたが、久々に通常の生活に戻った1日だった。













2021年10月27日水曜日

Party with TTS77 Students

バクザンではようやくコロナの規制も緩み、レストランも営業を開始した。
この時を待っていたかのように実習生からパーティーへのお誘いを受けたので何ヶ月ぶりかで実習生と食事に出かけた。
このクラスの実習生はまだICOに入学して間もないのだが、俺の拙いベトナム語と簡単な日本語を使えばなんとか会話は出来る。
なによりセンターを離れ、教室ではなくレストランというくだけた雰囲気も助けとなり、日本人と話すことは怖くないということや、覚えたばかりの単語を並べるだけでも通じることに対する喜びを感じてもらえることが一番いい点。
また、俺にとっては実習生それぞれの名前を覚えるいい機会でもある。
この子達が日本に行くのは、予定では来年の2月。
その頃には入国も再開され、なんの心配もなく日本に行けることを心より願う。






2021年10月21日木曜日

solar deity

教育センターの裏手には広大な田畑が続く。
バナナの木を赤く染めながら落ちていく夕陽が、日本やハンガリーで見た夕陽と同じものであることをいつも不思議に思う。
悠久の時の中で唯一形を変えていないものが太陽と月。
悠久の時の中で刹那の生を得、天命を全うして無に帰るのが人間。
死は全ての人間に平等に訪れることであり、受け入れるしかない事実。
覚悟を決めるしかない真実。





2021年10月18日月曜日

2021年10月16日土曜日

Congratulations, Oanh!

Nhanが結婚式に行く車内の様子をFacebookに挙げ、「Đi Ăn cỗ!」と書いていた。
Đi は行く、ăn は食べるcỗはごちそう・・・直訳すると「ごちそうを食べに行く」だが、この場合は、結婚式を祝いに行くという意味になる。
同じ意味でĂn tếtは旧正月を祝う、となり、テトが近づいてくると、Ăn tết ở đâu ?(旧正月はどこで祝うの?)と聞かれることが多い。
では、実際に結婚式やテトの風習は、というと、
結婚式場(たいていは自宅の前にテントを張った所)で花嫁に挨拶をした後は、食事の席につき、そこを両親や親族の方が回り、挨拶と乾杯をするというもの。
テトについてもそうで、朝から親戚の家を巡り、テト期間中ずっと宴会をして過ごす。
まさしく、「食べる」という言葉がふさわしい。

ということで、Oanh、結婚おめでとう!!




2021年10月15日金曜日

Beyond the railroad tracks

会社兼自宅の周辺模様。
教育センターから歩くこと数分でバクザン市との境界を示す標識に出くわす。
つまり、現在の会社兼自宅はぎりぎりバクザン市内に位置する。
ここから先17Kmで隣接しているバクニン省に入り、その隣がハノイ市となる。
道路から逸れると単線の線路。
1日に数本のディーゼル機関車が走り、北は中国との国境近くのドンダン駅、南はハノイ駅を結ぶ。
北のドンダン駅は2019年にベトナムで米朝首脳会談が行われた時、金正恩が北朝鮮からここまで60時間をかけてベトナムに到着した際の終着駅。
ドンダンからハノイまでは車移動のため、当日はバクザンーハノイ高速道路が厳戒態勢となり、我々も交通規制の煽りを喰った思い出がある。
バクザンから南の終点駅であるハノイに行くには圧倒的に乗り合いバスやリムジンバスが便利なので、この線は利用したことがないが、電車で行くとハノイで一番好きな場所であるロンビエン橋を渡れるので、いつかこれを目的に乗ってみよう。
機会があればバクザン駅から電車を乗り継ぎ中国に行ってみてもいいな。
コロナの影響でバクザン省から出られない今、線路の向こうに夢を馳せる。
旅に病で夢は枯野をかけ廻る・・・バクザンにもそろそろ冬の足音が聞こえてきた。










2021年10月14日木曜日

Jägermeister

バクザンにある数少ないウィスキーを飲ませる店でハンガリー時代によく飲んでいたイエガーマイスターと出会う。
イエガーマイスターはmade in Gremanyで、ハンガリーのウニクムと肩を並べる薬膳酒のひとつ。
この店ではカクテルとして出していたが、これは邪道。
俺の飲み方はただひとつ、ショットグラスで一息に飲む。
翌日が平日であることも忘れ、久々に二日酔いを誘発する、懐かしい飲み物と出会った。




2021年10月13日水曜日

vending machine 2

自動販売機の中にジュースと並んでタバコが!
どうもこの自動販売機の飲み物は常温で保管されているらしい。
タバコとジュースの値段は同じ、日本円にして約50円。
激安だ!
日本では10月1日からタバコが値上がりし、セブンスターが600円になったらしい。
税金を上げても文句を言われない代表がタバコなだけに、1000円になる日も近いという。
ニコチン中毒者にタバコを供給し、片方では税金を搾り取る・・あくどい商売だ。
タバコの値上げに辟易している人は、ベトナムに来ることをお勧めする。


2021年10月12日火曜日

VietnamPlus

俺のメールは時にタイムマシン化され、過去からのメールがある日突然届くことがある。
本日も、VietnamPlusという新聞社から、以下の記事を掲載した旨の連絡をいただいた。
なぜ今なのかは別として、ありがたく頂戴しておく。


日本人専門家、感染拡大下のベトナム人の精神に感服

2021年06月11日付 VietnamPlus紙
向比登志氏
向比登志氏
日本人専門家、感染拡大下のベトナム人の精神に感服


日本人専門家によると、バクザン省での感染症対策医療スタッフの約半月に及ぶ支援の中で、専門家は苦難と高尚な自己犠牲を強く感じ取った。



バクザン省での感染対策の間、ICO社の役員である日本人専門家の向比登志氏は、新型コロナウイルス感染対策のための支援サポート活動にいつでも参加する用意ができていた。

向氏は語った。「私は、ベトナムに縁して既に6年を経ていますので、とりわけこの地に全力で尽くそうという思いがあります。ベトナムは私の第二の故郷といって過言ではありません。私はこの国を大切に思っているので、微力ながらも新型コロナウイルス対策に力を尽くしたいと考えています」。

日本人専門家によると、バクザン省での感染症対策医療スタッフの約半月に及ぶ支援の中で、専門家は苦難と高尚な自己犠牲を強く感じ取った。

「バクザン省では外の気温が40度まで上昇することもある中で、レベル4、レベル6の防護服を着用しなければならない医療スタッフ達の姿を見て、その忍耐力や気丈さにますます感心しています。多くの困難、苦難の中でも彼らはいつも明るく、楽観的な気持ちでいようと心がけています。感染症に立ち向かい、対処するベトナムのやり方を見て、彼らの素晴らしい民族団結の精神に心から感服しています」と向氏は語った。

6月初め以降、バクザン省では新型コロナウイルスに関して最も「加熱」しており、新規感染者数の増加がおさまらないことから、同省は各機関や地元企業に対し、医療支援のため全国のあらゆる地域からバクザン省に集まった医療従事者のための食事場所、宿泊場所を作るためのインフラ支援を呼びかけている。

「敵と闘うように感染症と戦え」との考えに立って、ICO国際人材リソース株式会社(バクザン省)は、タイビン省医科大学およびハノイ医療専門学校からの142名の医療従事者のため、(自社の)役員、学生用の宿舎全部を提供する準備を調えた。

ICO社に泊まる医療スタッフ団を支援するため、支援サポート活動への参加を準備しているボランティアの数は、日本人専門家である向氏を含め10名に上った。

向氏はベトナムに2014年に来て以来、同社で学生の管理と育成に携わっていると語った。

バクザン省で新型コロナウイルスの感染が流行した2021年の5月中旬と6月初旬、医療スタッフ一行が会社の宿舎に宿泊するとの知らせを受け、向氏は支援サービス提供のボランティアに志願し、医療従事者が安心して、最も効果的に感染対策を行えるよう支援した。

向氏の毎日の仕事は、トイレ清掃、消毒、および医療従事者達のために食べ物や飲み物を受け取る担当者の補助である。

向氏の一日の仕事は他のボランティアと同様に、いつも5時30分から始まり、実地に検査サンプルを取りに行く医療スタッフ団の作業状況に応じて休憩をとる。医療スタッフ団は午前2時まで作業を行ったあとにようやく戻って来る日も多くあるものの、向氏のようなボランティアの人々は喜んで熱心に飲食を提供している。

なぜベトナムに住み続け、感染症対策の医療従事者を支援する活動にボランティアとして参加しているのか、その理由を聞かれた向氏は、「私はベトナムやベトナム人に縁して既に6年を経ました。私はこの国を大切に思っているので、微力ながらも新型コロナウイルス対策に力を尽くしたいと考えています」と語る。

今回の決断にあたり、向氏は日本の友人や家族から絶対的な信頼と支持を受けている。

向氏は感染症が早く収まり、全ての人が通常の生活に戻れるように願っている。

2021年10月11日月曜日

BreakFast

時々Ngocが朝ごはんを買ってきてくれる。
ベトナムの朝ごはんの定番はフォーやブンといった麺類で、テイクアウトの場合はビニール袋に入れるのが常。
熱いスープによりビニールの悪い成分が溶け出さないかという心配はあるが、ここ数年の経験から特に問題はなさそうだ。
ベトナムの常識として、食事は必ず3食食べるべきで、特に大切なのが朝ごはんとのこと。
社長などは、朝からフォーを2杯食べるという。
片や1日3食食べると内臓の休まる時間がなく、16時間断食をすることでオートファジーという細胞内のごみ処理が働くという理論もある。
俺も過去数ヶ月は1日1食としていたが、コロナ禍におけるボランティアの際に医師団と同じく3食が配給された時から、3食に戻った。
ボランティアが終わり、仕事を再開した頃から、朝抜き、昼はLuongの店でがっつり、夜は自炊のため適当、という食生活になった。
俺の場合、朝食を食べ過ぎると返って眠たくなり頭がすっきりしないので、コーヒーとクラッカーぐらいがちょうどいいのだが、前述のベトナムの常識ではこの食生活は考えられないため、時々誰彼となく朝ごはんの差し入れをもってきてくれる次第。
ということで、俺の食生活は規則正しいというよりは、その日によって変わるという不規則なものとなっている。



2021年10月8日金曜日

midnight Express

ベトナムでの新型コロナ第4派が我が街Bac Giangを襲ってから早や半年。
Bac Giangでのコロナは6月に収束したものの、その後は舞台を南に移し、連日1万人を超える感染者数をたたき出していたが、それもようやく収束に向かいつつある。
この半年、ようやくレストランは再開したものの、未だBac Giang省から外に出ることはできない状況にある。
俺はというと、5月、6月の2ヶ月間はLavimanの施設内で隔離生活を送りつつ医師団のボランティアとして行動していた。
Bac Giangのコロナが収束した7月からは縮小人数での勤務を開始、9月にはLavimanの寮から現在の勤務地の部屋に移り住んだ。
やることといえば仕事のみ、今年から給料が支払われていないが、遊びに行くことも出来ないので今までの貯蓄で生活出来ている次第だ。
最近の楽しみといえば、土曜日に有志でやる鍋宴会と昼食時のミニ宴会、それとYoutubeで観る旅番組。
旅行に行けない分、旅番組を見て行った気になる。。なんと安上がりなことよ。
今や全世界的に規制がかかっている中でもあることから、今日は俺のお勧めの旅番組を紹介しておく。
既に何度か触れてはいるが、沢木耕太郎の紀行小説を基にした「深夜特急」のドラマ版。
活字好きの俺が、この小説に限っては文字で辿るより早く、Youtubeの、時に音声が途切れる映像で知った事と、その映像を見て深く嵌ったもの。
もし、今日は何をしようか迷っている人がいるならば、このドラマをお勧めする。




2021年10月7日木曜日

Soshū yakyoku

いつか行ってみたい場所のひとつ、中国、蘇州。
東洋のベネチアと呼ばれる運河の街。
でも行けば寂しくなるような気がする場所でもある。
なぜか耳に残っている蘇州夜曲の悲しげなメロディーのせいか。

掩妝奩 繡帷暫卷 青瓦樓外霜滿天
柳蕭疏 秋濃風淺 寂寞怎無端
小窗鶯聲又一晚 漁火孤帆蘆葦田
擾動銀波幾萬點 愁來對絲弦

杳雲煙 暮裡雨暖 折取桃枝欹枕前
渺人間 織錦一展 與君總相歡
幾曾春風共此景 當時北雁今已還
忍顧紅香隨波遠 消損鏡中顏

角聲殘 琴長曲短 華年寧將就彩鴛
捻晨燈 新酒半盞 且酌向寒山
剪卻秋水繡紅鸞 醉裡相思千百篇
曉鐘深處著畫箋 催得流光換

君がみ胸に 抱かれて聞くは
夢の船唄 鳥の歌
水の蘇州の 花ちる春を
惜しむか柳が すすり泣く

花をうかべて 流れる水の
明日のゆくえは 知らねども
こよい映した ふたりの姿
消えてくれるな いつまでも

髪に飾ろか 口づけしよか
君が手折りし 桃の花
涙ぐむよな おぼろの月に
鐘が鳴ります 寒山寺


2021年10月6日水曜日

PosterGirl

食堂店主のLuongと看板娘2名とのFour Shot。
Luongは俺の今の食生活において欠かせない人物で、毎日の昼食のお世話になっている。
時々ベトナム特有の「動くものは何でも食べられる」理論の料理を出され辟易することもあるが、それ以外はどれもかなり旨い。
食堂を手伝う2人の娘はいづれも陽気で、最近は日本語を覚えだしてきた。
食堂は俺の部屋の真下にあり、センターにいる中で衣食住のうち2つを満たしている。
衣については気にしないので、実質は生活における2つの生活の基礎は成り立っている。
この3人、同じ食卓を囲む家族のような存在だったのだが、このたび娘2人がコロナも落ち着き学業に戻ることになった。
夜、食事がてらの小宴会で彼女達の送別会を実施した。
機会があったらまた戻ってくることを約束して・・・
Phuong, Van Anh, hẹn gặp lại nhé!


2021年10月5日火曜日

Rural scenery

Nhiの家の前の景色。
夜になれば星が綺麗に見えるんだろうな・・。


2021年10月4日月曜日

New room

9月最初の土曜日に新しい部屋に引っ越して早1ヶ月。
以前の部屋よりも快適さを増している。
その原因として、
1.エアコンの効きが圧倒的に勝っていること。
2.シャワーの勢いが快適そのものであること。
に尽きる。
部屋から俺の事務所まで歩いて10歩なので、プライベートとビジネスの境界がないが、大雨でもぬれる事なく通勤が可能なことと、バイク通勤での危険が無いこと、時々みんなが差し入れを持ってきてくれることもあり、便利さも増した。
課題は運動不足解消。
謎の膝痛が治ったら、市場の探索も兼ねて裏通りをウォーキングすることにしよう。





2021年10月3日日曜日

Flying light

飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒をすすめん

この一文を思い浮かべるたび涙が出そうになる。

これは、俺が愛してやまない沢木耕太郎著の「深夜特急」内に登場する言葉。
中国、唐の時代の詩人、李賀の漢詩の一文。

「深夜特急」に対する玉造猫という方が書いた書評を以下に示す。
俺のこの漢詩に対する思い、「深夜特急」に関する感想を見事なまでに伝えてくれている。

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本を読むとは、ときに不思議な体験だ。いまさらわたしが書評を書くなどおこがましい『深夜特急』。でもやはり書きたい。

 著者は二十六歳のとき一年かけて、そのときしかできない旅をし、十年後に『深夜特急』を二巻書き、その六年後に三巻目を書いた。さらに十六年たってその旅とその三巻の本に関する本『深夜特急ノート』を書いた。わたしはどの本も出版後すぐ読んだ。

 最近「初の短編小説集!」と帯に書いた著者の新刊『あなたがいる場所』を読んだあと、思いだして『深夜特急ノート』を本棚から出してきた。当然のなりゆきと言おうか、そのまま引き続き『深夜特急』を初めから終わりまで読むことになった。前は図書館のハードカバーで三冊借りたのだったが、今度は文庫で六冊買って読んだ。

 前は読み過ごしていたところに目がとまった。付箋を貼り、行に線を引き、読み終わってからまたその頁に戻った。

  飛光飛光 勧爾一杯酒

 文庫で5「トルコ・ギリシャ・地中海」篇、第十五章「絹と酒」。書簡体で書かれた章の中で、二十六歳の「僕」がギリシャのパトラスという町から船に乗り、イタリアのブリンディジに渡ろうとしている。青い地中海、空も陸さえも青い。「僕」は旅で出会った若者たちのことを思いだし、「彼らがその道の途中で見たいものがあるとすれば、仏塔でもモスクでもなく、恐らくそれは自分自身であるはず」だと思う。そして「取り返しのつかない刻がすぎてしまったのではないかという痛切な思いが胸をかすめ」、「僕を空虚にし不安にさせている喪失感の実態が、初めて見えてきたような気が」する。甲板で酒を飲んでいた「僕」は「泡立つ海に黄金色の液体を注ぎ込んだ」。

 ここで李賀の詩が出てくる。「飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒をすすめん。その時、僕もまた、過ぎ去っていく刻へ一杯の酒をすすめようとしていたのかもしれません」 

 五冊目まで読んでくる間、頭から抜け落ちていたが、李賀は実は一冊目、第一章でちゃんと登場していたのだった。Tシャツ三枚靴下三足といった持ち物のなかに本は三冊、西南アジアの歴史の本と星座の概説書と、読める本といえば中国詩人選集の李賀の巻だけ、として出てくる。

 李賀という詩人について、わたしは、昔『深夜特急』を読んだときはもちろん今回再読したときも、名前さえ知らなかった。それで読み落としていたのだ。

 ここへ来て初めて一行だけ李賀の詩に触れ、とりあえずネットで検索してこの詩を全部読んだ。詩集を読むのは改めてのことにしても、李賀がどういう詩人か、だいたいのところを知った。

 その目で読み直すと、『深夜特急ノート』には、持っていく本になぜ李賀を選んだかについての言及があった。 二十七歳で夭折に近い死に方をした、「長安に男児あり 二十にして心すでに朽ちたり」という詩がポール・ニザン「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」と共鳴しあって記憶に残った、と言っている。

 わたしは唸った。著者は最初に李賀の名前だけをさりげなく出しておき、終章近くで詩人の神髄に触れる一行を置く、しかしこれもさりげなく。

 しかも最初と最後が書かれた間には六年もの時間がたっていたのだ。  

 若いとき読んだ『深夜特急』はひたすらおもしろく、わたしはこんな風にしてひとり旅をしたいと思ったものだ、もちろんできはしなかったけれど。今老齢になっても、香港のところを読めば、もしかしたら香港だったら行けるかもしれないと思い、パリのところを読めば、それなりの旅行ならパリだって不可能ではないかも知れない、と性懲りもなく夢想している。

 だがそういうことと別のところで、年を取って再び読んだこの本は、わたしのお腹の深いところに響いた。

 飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒をすすめん。