ハンガリーでの生活において、今まで意識したことのなかったキリスト教というものが身近に思えるようになった。
Gyorの街のそこここにある教会、クリスマスの4週間前から始まるアドベントでの催し、ハンガリー最古の修道院であるパンノンハルマ大修道院での週1回の授業、友人であるGerryが修道士になったこと・・・
休日、予定がない日は教会の末席で過ごしたり、パンノンハルマからの帰りはバスが来るまでの待合所代わりとして教会を使わせてもらっていた。
ハンガリーでは生活に自然とキリスト教が寄り添っているといった感じだった。
Gerryにもらった英語版の聖書は最初のキリストの系図で挫折したが、最近少し読み解いてみた。
キリスト教では自身の肉体に魂を宿しているのではなく、魂が肉体を支配していると考え、
死ぬということは自身である魂が肉体を離れることに過ぎない。
死は滅びではなく新たな旅立ちであり、地上の生涯を終わった後は天に永遠の住みかが与えられる。
つまり死は終わりではなく、地上における自身の旅路の到達点としているのがキリスト教の死生観となる。
俺自身の死生観としては、生まれてから死ぬまでの生涯は予め決められており、決められた年月が過ぎれば自ずと終焉を迎える、謂わば死は運命に導かれたものだと考えている。
灯した時は長かった蝋燭がやがて燃え尽きるような感じ。
運命に抗おうとするのではなく、その時がくれば素直に受け入れたいし、周りの人も幸せな生涯だったと思ってくれればそれでいい。
死者を弔う方法は、残った者の慰めになる方法を選んでもらって良い。
ベトナムにもキリスト教は普及しており、Bac Giangにも教会が点在している。
ただヨーロッパと比較して開放的ではなく、ミサの時間以外教会の門は閉ざされていることが多い。
ベトナム中部に勤務している時、一度ミサに参加したことがあるが、厳か、敬虔といった雰囲気よりは賑やかという印象を受けた。
ミサにもその国の特徴が出るようだ。
実習生の家庭訪問に行く途中で目にした教会から、ふとハンガリーでの生活を思い出し、結果として死生観にまで言及する雑文となったのは、混沌とした今の俺の頭の中を表しているようだ。
願わくば全ての人が幸せでありますように。。
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