2022年5月18日水曜日

Gate of youth

五木寛之著「青春の門」的に青春時代を振り返ってみるも、俺には感受性豊かと言われる思春期の思い出が少ない。
大阪の岸和田で生まれ、物心付くまでの期間を岸和田で過ごしたらしいのだが、その時の記憶といえば、長屋の四畳半と共同の炊事場、長屋の入り口で撮ったと思われる着流し姿の親父の写真のみ。
結核を患った直後に撮ったとかで、自暴自棄の太宰治のようないでたちの親父の写真が1つめの記憶。
その後、大都市周辺のニュータウン計画に基づき開発された公団住宅の抽選に当選し、俺が幼稚園の時に移り住んだのが大阪府吹田市古江台。
お袋と買い物に行った際、マーブルチョコレートをくすねたのだが、帰り道にかちゃかちゃと鳴る音であっけなくお袋にばれ、店まで返しに行ったことが2つ目の記憶。
小学校1年の2学期に親父の転勤で和歌山県田辺市に移動、田辺第二小学校に転校することになる。
東洋中学校の前でお袋が撮った俺の写真、これが3つ目の記憶。
小学校5年生の時、親父の勤務先である海上保安庁の宿舎が上富田に出来、転宅したが、俺は小学校を転校せず、卒業までの約1年間をバス通学をすることとなる。
中学校は地元の上富田中学校に進み、バスケット部に腰掛けた後、野球部に所属。
この頃に、未だ腐れ縁で付き合っている6人のメンバーと出会う。
中学校3年の時、親父の転勤で大阪の枚方に転校。
今では学校の名前も忘れたが、ここでは運動はほぼトップだが、勉強には全くついていけない状態だった。
英語の時間、Have toを「ハブツウ」ではなく「ハフトゥ」と発音する先生や生徒が馬鹿に見えたが、実際の馬鹿は俺だった。
大阪という都会に住む子供は要領がよく、進学の足しにもならない水泳大会やリレーの選手役はすべて俺に回り、みんなは高校受験のための進学塾への日参が続く中、俺は小児麻痺で腕が伸ばせない奴と、頭は悪いがよくもてる奴とつるんでいた。
その生活は大阪での2学期を終えることなく破綻する。
過去最大の反抗期により、大阪から和歌山に舞い戻り、母親の知り合いの家に居候させてもらいながら最後の中学時代を上富田で過ごした。
警察官のお父さんと面倒見のいい太っ腹お母さん、育子ちゃんと栄子ちゃんは俺の5歳と3歳上のお姉ちゃん、ここにしばらくの間家族として参加させてもらったのも、母親がお願いしてくれたおかげだ。
昼休みは学校から家に帰り、おばあちゃんと一緒にお昼ご飯を食べ、その後12時45分から始まるNHK連続ドラマ「鳩子の海」を見てから学校に戻る。
昼の授業は1時からなので、毎日午後1の授業は遅刻していたはずなのだが、先生に怒られた記憶もない。
高校受験終了後の結果発表の日、その日は雨だったが警察官のお父さんが心配して合格発表を見に来てくれたことを俺は知っている。
「高校もここから通ったらいいよ」と言ってくれたお父さんとお母さん。
本当はそうしたかった。
お願いしますという言葉が喉まで出掛かったのを押さえ込み、学校の寮に移り住んだ。
高校時代は俺の生涯でさほど重要ではなかったのか、それほど感慨深い思い出はない。
入寮1日目、3階の3年の部屋に新入生が1人ずつ呼び出されるという深夜の歓迎会、中学から続けていた野球部に入るも1学期を待たずに辞めてからは酒と煙草を覚えた若草寮での生活、寮長となった自分が3年の時、先輩からの伝統を受け継ぎ実施した1年に対する深夜の歓迎会等々、凡そ自慢できるような生活はしていなかった。
高校を卒業しても目標もなく、田舎ではあるが進学校に行っていたこともあり、いくつかの大学を受験したが、こんな生活をしていれば受かるはずもなく、浪人生活に突入。
14歳から実家を飛び出た身からすれば、浪人生活を実家の世話になるという選択枝は毛頭無く、大阪の数あるホテル街で有名な生玉地区でアパート付きの新聞配達のアルバイト生活を始める。
1浪後、関西大学に入学するも、大学には籍を置いたまま、専らアルバイトに明け暮れる。
四畳半の部屋が2つきりの酒屋の倉庫で一緒に暮らした龍二は今はもういない。
以上が俺の「青春の門」的自叙伝だ。
この後、俺の人生は第2部そして第3部と移るのだが、それはまた、書く時期を迎えた時においておく。

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